2013年6月28日金曜日

書評『地域文化のアクチュアリティ−愛媛からの発信−』

こんにちは。
最近やたら友人との思わぬ再会が続くのは、雨のせいで移動が徒歩だったり、バスだったりするせいでしょうか。たまには移動手段をかえるのもいいですね。
さて、2回目の更新は書評です。


2006年に上梓された『地域文化のアクチュアリティ−愛媛からの発信−』という本がある。
Amazon
開けば愛媛の舞台芸術、音楽、美術の諸活動が広範に紹介されていて興味深い。伝統芸能からパブリックな意味を語りづらいインディー領域までを一冊で取り扱うところに、この本を世に送り出した愛媛大学地域創成研究センターの姿勢が伺える。本稿では、その基本姿勢を示す愛媛大・寿卓三氏による序論『住まうと芸術文化一彷程としての帰郷,あるいは本書の序論帰郷としての彷程一』について考えてみたい。

この論文は、私たちがある場所で暮らし生きること、つまり「住まう」ことと芸術文化の関係について考察している。近代都市システムの遍在は、わたしたちを「われわれの」と呼べる「故郷」から物理的・精神的に引き離し、「私の主人は私だけ」という自由と同時に「根無し草」的なアイデンティティの喪失をもたらした。では、「この世に居場所を持てない」現代人はどのように居場所を確保すればいいのか?生の拠り所として帰るべき「原郷世界」を探す旅/彷徨について、またそのバリエーションとして人と心を通わすことについて、文学作品に問いかけてみるというのがおおまかな筋だ。ざっくり言えば、自分探しの旅についての話である。
自分探しの旅、と聞いてウィンドウを閉じるのは待ってほしい。たしかに恥ずかしい話であることは認める。某青春少女マンガで自転車で疾走(失踪)した彼を思い出して悪寒が走るのも無理はない。しかしもう少し堪えてほしい。同論文でいう「原郷世界への探求」、「彷徨/帰郷」=自分探しをこじらすと、気が狂ったり(梶井基次郎をイメージしている)、宗教や死とお近づき(こちらは三島由紀夫)になったり旅に出たりする。特に自分を探して現実生活空間から旅立つという主題は「恋愛の本質的な葛藤とそれがもたらす甚大な余波」(註1)という形で、夏目漱石のほか現代文学でも展開されるという。こうした森見登美彦的事態を避けるために、みな日常の忙しさと社会的向上と、ぼちぼち満たされた余暇という生活に身を置き、人との適度な距離を保っては問いを止め、あますっぱい自分探しの危険から身を守っているのだ。しかし、寿氏は鋭く指摘する。「形而上的な夢をロマンティシズムという名のもとに切り捨てるだけでは、われわれの生の可能性を「生活のささやかな上昇」のみへと縮減し、結果として生の尊厳を消滅させていくことになってしまうのではないか。これは、現実に対する批判精神を麻痺させ、没知性へと後退してく潮流に加担することになるのではないか。」と。不肖私ももうすこし想像を膨らまして頑張ります。お付き合いください。

ところで、寿氏はこうした状況から無理に結束すべきではないと言う。なぜならば、アイデンティティの欠片ひとつから無理に「われわれ」の共通の母体を作り上げれば、原理主義となり強く排他的になるからだ。これには深く納得した。たしかに拙速に「答え」を出して原理主義に偏るより、いったん保留した方が安全だ。しかし、保留は問題を解決する訳ではない。むしろ事態は悪化する。同論文中に挙げられた吉行淳之介と桐野夏生の作品の主人公は自分の居場所を求めて非日常=旅へと足を向けるが、前者は自己嫌悪に苦しみ、後者は思考停止という結果に終わり、「原郷世界」との邂逅は果たせず終わる。非日常の祝祭世界に自分の居場所を探すことは、半死半生の危険を伴うのだ。ひからびたり、膿んだり、凍ったり、そして待ち受けるのは絶望と狂気。しかし、寿氏はあきらめた訳ではない。漱石の制作姿勢に可能性を見ている。それは芸術家の非人情、則天去私と呼ばれる自己を滅し真実を見抜く姿勢だ。このような観察眼、審美眼によって見いだされた普遍性は再び人を結び付けることができるはずである、というのが着地点だ。

たしかに、芸術家の目は普遍の真理を見抜き、人類や国民、地域住民の心の里を見せるかもしれない。同論文が引用するヘルダーリン『ヒューペリオン』のように「民族全体が美を愛し、自国の芸術家たちに宿る精霊を敬うところでは、ひとつの普遍的な精神が生気のように吹きわたり、ものおじする心も開け、慢心は消え、あらゆる魂は敬虔で偉大となり、感激が英雄を生み出す。」かもしれない。ひとつの理想型だ。しかし、ここで私の脳内によぎるのは世界と分かり合いたい欲求と自分らしく人と違っていたい欲求の相克、すなわちいかに鑑賞するかの問題だ。その疑問は次のような一巡の考えになる。つまり、美的に絶対的なものの前で自己を遥かに超越する存在に快感を感じそれを人と共有するよろこび、それを人に強要してはいけないという懸念、それにそもそも絶対的な美が存在するのかという疑問である。思い出すのは『文学・芸術は何のためにあるのか?』(2009年)に掲載された岡田睦生氏のテクスト「文学・芸術は生きる希望を与えてくれるか?」だ。彼は芸術の感動とは「他者と合一したい、大いなる宇宙と一体化し、その中で消え去りたい。そんな自己滅却の衝動である。」と看破した。しかし、同時に2つのためらいについて言及している。ひとつは、この「感動」が身体的で個人的なものゆえに言語化できず、完全な共有が不可能であること。もうひとつは、大いなるもののための自己滅却の危険性だ。彼はベートーベンの第九で「いざ抱き合え、幾百万の人々よ!」と歌われるときその輪に入れず「ちょっと、、」なることを許さない同調圧力を例に挙げ、芸術が「教化」の手法として働くことを指摘している。そんな普遍性へのためらいは、某SFアニメ映画で原始に戻れとパシャパシャ液化しては一体化していく人類の様に「ちょっと待て」思い、最後に一体化しない人間がいてよかったと思った感覚に似ている。もう少し議論を明確にするために、「我と汝」を書いたマルティン・ブーバーを引いてきてもいいだろう。そもそも対話が「俺」と「お前」がいないと成立しないのだから、まず自分と他人が別物だと認識できなければコミュニケーションできないと彼は言った。この経路なくして「一体感」の快感は味わえないと私は思う。想像してみよう。出自の異なる老若男女がノリにノってるライブがあるとする。醸されるグルーヴ感は老・若・男・女がいて成立するのだ。よくいう話だが、なにかと「同じ」だと認識できることはなにかと「違う」と認識することと対なのである。

話がややこしくなってきたので、問いの角度を変えよう。そもそも絶対的な美は存在するのだろうか。私は存在すると思う、ただし極個人的世界の内でのみ。作家も個人ならば、見る方も個人だ。結果的に「絶対」のバリエーションが個人の数だけ存在することになる。言い換えれば「おお、これは」という感動は十人十色なのである。なにが言いたいかというと、美的存在の前では与える者−享受する者という関係ではなく、美的なモノゴト−体験する者という関係しか存在しないのである。すべてのモノがあまねく美的な存在になりうるが、特に美的体験を触発するモノを発見しつくるのが社会的存在としての芸術家だと言えるはずだ。

しかし、どうにも作家が発見した美は、多くの人を巻き込む普遍性があるところが悩ましい。そうしてまた「原郷世界」を探してみたくなったりする。徹底した相対主義と究極の存在への憧れという矛盾、疑うことと信じることが並存する状態は、やっぱり自分探しに逆戻りしてしまうのだけれども、結果的にその方が健全だったりするのかもしれない。なにかが多くを動員しながら一方向に加速する時、こんなクラインの壷的思考が果たす役割があると思っている。最後に岡田氏の言葉を紹介して終わりにしましょう。

だが、幸いなことに、私たちは芸術によって命を落とすことは、まずない。私たちは芸術体験という死の儀礼を通して、再び蘇る。こちらの世界に戻ってくることが出来る。その時、自分の身体が、心が、隣人たちが、社会が、世界が、それまでとはまるで違って見えてくる。心の闇を引き受け、それを爆発させ、過去の自分を崩落させて、そして生き返らせてくれること。

こうした危険な侵犯の恍惚としての美的体験を生活圏にインストールしていくとき、文化は多義的でアクチュアルな実践となるはずだ。問題はいかにその現場を用意するか。冬にむけて展覧会の計画を立ててます。順次報告します。乞うご期待!


註1:『漱石とグレン・グルード 8人の「草枕」協奏曲』所収 樋口覚「グレン・グルードを聴く夏目漱石」から同上論文中で引用